医師同士のパスワード共有という病院内の”慣行”、公益通報の保護要件、中間収入控除の計算まで——複雑な争点を時系列でわかりやすく解説します。
| 📅 判決日 | 令和7年(2025年) |
| ⚖️ 裁判所 | 熊本地方裁判所 民事第3部 |
| 👨⚖️ 担当裁判官 | 裁判長 川崎聡子、裁判官 佐田崇雄・上阪凌太郎 |
| 📋 事件種別 | 労働契約上の地位確認・賃金支払請求等 |
| ⚡ 結論 | 諭旨解雇を無効と判断。地位確認・未払賃金の支払いを認容(一部棄却) |
| 💰 認容額 | 1,539万6,114円(未払賃金)+令和7年8月以降 毎月132万3,777円 |
① 事件の概要
被告(地方独立行政法人)は、平成29年10月に設立され令和3年3月に開院したa病院を運営する法人です。原告医師は平成26年2月から同病院の前身・b病院で勤務を開始し、泌尿器科部長→診療部長→副院長へと昇進してきた実績ある医師でした。
ところが令和5年12月、被告は原告に対して「①他者の電子カルテIDとパスワードを使って処方箋を偽造し向精神薬を含む薬剤を不正入手した」「②同僚医師の処方箋コピーを被告の許可なく外部機関に漏示した」として諭旨解雇を通告。原告が退職願の提出を拒否したため、同年12月20日付けで解雇されました。
これに対して原告は解雇は無効であるとして、労働契約上の地位確認と未払賃金・遅延損害金の支払いを求めて提訴しました(損害賠償請求330万円は棄却)。
② 登場人物
泌尿器科部長→診療部長→副院長を歴任。令和3年3月に健康管理センター次長へ更迭。令和5年12月に諭旨解雇。
平成29年設立。令和3年3月開院。原告を諭旨解雇した法人。
l大学病院から派遣。原告とパスワードを共有し処方箋を相互発行。令和3年5月に戒告処分。令和4年3月退職。
l大学病院から派遣。原告によるパワーハラスメントを告発。令和2年4月に異動。
③ 事件の時系列
④ 3つの争点を整理する
| 争点 | 原告の主張 | 被告の主張 | 裁判所の判断 |
|---|---|---|---|
| 争点① 諭旨解雇の有効性 |
c医師の同意を得て処方箋を発行。告発は公益通報。解雇は無効。 | 無断で他者IDを使用し処方箋偽造。告発は報復目的。解雇は有効。 | 解雇無効 懲戒事由は認定されるが「重きに失する」として相当性を欠く |
| 争点② 賃金請求権の有無・額 |
解雇無効なら賃金請求権を有する。中間収入控除は最小限。 | 解雇は有効。仮に無効でも中間収入を多額控除すべき。 | 一部認容 賃金請求権あり。中間収入は規則に従い控除 |
| 争点③ 不法行為・損害賠償 |
解雇は不法行為。慰謝料300万+弁護士費用30万円を請求。 | 不法行為不成立。 | 請求棄却 解雇に相応の理由あり。不法行為は成立しない |
⑤ 解雇理由①:処方箋偽造・電子カルテ不正操作
裁判所が認定した事実
裁判所は、平成28年7月頃から令和元年12月17日までの間、原告がc医師との間でパスワード等を教え合い、c医師から都度同意を得ることなく、c医師のIDでシステムにログインしてc医師名義・原告患者名の処方箋を複数回発行し、薬剤を入手したと認定しました。
「都度同意があった」という原告の主張は認められず
原告は「c医師から毎回同意を得ていた」と主張しましたが、裁判所は以下3点を理由にこれを退けました。
c医師自身も原告のパスワードを無断使用していた
c医師は原告のパスワードを使って都度同意なく原告名義の処方箋を発行していた。原告はこれに気づいていながら何も注意せず容認していた。「自分だけ毎回同意を得ていた」とするのは不自然。
娘の処方箋まで同様の方法で発行
平成28年8月25日、c医師名義・原告の娘を患者とする処方箋が原告の診察室端末から極めて近接した時間に発行されていた。原告自身が自分を名義人として娘の処方箋を出せるにもかかわらず、わざわざc医師に依頼・同意を取ることは考え難い。
法人公文書の不正作成・使用に該当
上記行為は就業規程第58条⑽・懲戒規程別表25項(「法人公文書を不正に作成し、使用すること」→解雇または停職)の懲戒事由に該当すると認定。
⑥ 解雇理由②:処方箋コピーの外部漏示と公益通報者保護法
原告の告発行為とは
原告は令和3年1月にj町長へ報告し、同年6月に警察・厚生局へc医師の処方箋偽造等を告発、偽造処方箋のコピーを提供しました(本件告発)。
被告の主張:「報復目的の告発で公益通報に当たらない」
被告は、c医師が原告のパワーハラスメントを告発した報復として本件告発を行ったものであり、「他人に損害を加える目的」による告発は公益通報保護法の保護対象外と主張しました。また、業務に重大な支障(信頼毀損・泌尿器科手術数激減・売上減少)が生じたとも主張。
裁判所の判断:公益通報に該当し、解雇事由に使えない
たとえc医師への反感が動機の一つであったとしても、「医療事故防止のために告発した」という側面が否定されない以上、不正目的は証明されず、公益通報者保護法第3条の保護が適用されます。
⑦ 解雇の相当性——なぜ「無効」となったか
裁判所は解雇理由①の懲戒事由(処方箋偽造)は認定しました。しかしそれでも「諭旨解雇という重大な処分は相当性を欠く」と判断しました。決め手となった事情は以下の3点です。
パスワード共有・相互発行が「病院内の慣行」だった
本件病院の泌尿器科では、医師間でカルテシステムのパスワードを教え合い自分を患者とする処方箋を相互に発行することが常態化していた。被告においてこの行為が重大な非違行為として認識されていたとはいい難い。
より悪質なc医師への処分が「戒告」だけだった
c医師は処方箋を自分で発行した上に保険医氏名欄を手書きで原告名義に書き換えて偽造するという、より積極的・悪質な行為を行った。にもかかわらず被告はc医師に戒告処分のみ。原告だけ諭旨解雇は「不平等であり重きに失する」。
解雇理由②の告発は内容が真実であり手段も相当
告発内容(c医師の処方箋偽造)は真実であり、先に被告理事長に報告したが対応されなかったため外部告発に至った経緯は相当。告発によって病院の不適切な処方箋取扱いの是正が図られたという公益的効果もある。
⑧ 賃金請求権と中間収入の控除
賃金請求権の発生
解雇が無効であるため、原告は被告の責めに帰すべき事由により就労できない状態にあります。民法536条2項(危険負担)により、令和5年12月21日以降の賃金請求権(月額132万3,777円)を失わないと認定されました。
中間収入の控除ルール
解雇無効の場合、解雇期間中に得た「中間収入」は原則として賃金から控除されます。ただし解雇がなくても当然取得し得た収入は控除不要(副業的収入)。また控除額の上限は平均賃金の4割(最高裁昭和37年7月20日判決)。
| 就労先 | 収入の種類 | 控除対象か |
|---|---|---|
| d病院 | 火曜日宿直 | 控除対象外(解雇前から継続の兼業) |
| d病院 | 火曜日宿直以外(外来診療等) | 控除対象(解雇によって初めて就労可能になった時間帯) |
| eクリニック | 令和7年5月まで | 控除対象外(解雇前から並行して就労していた副業) |
| eクリニック | 令和7年6月以降 | 控除対象外(頻度・収入が解雇前と同水準と認定) |
| f学院・gクリニック・h教育委員会 | 全収入 | 控除対象外(当事者間に争いなし) |
これらを踏まえ、裁判所は各支払期日ごとに賃金額から中間収入を(4割上限で)控除した金額を計算し、未払賃金の合計を1,539万6,114円と認定しました。
⑨ この判決の意義
医療機関における「慣行」と懲戒処分の比例原則
病院内で長年常態化していた慣行(医師間のパスワード共有・相互処方)について、被告自身が「重大な非違行為」として認識・対応してこなかったにもかかわらず、原告にだけ最高水準の懲戒処分を科すことは許されない——という判断です。懲戒処分の「相当性」は他の職員への処分との均衡も含めて審査されるという実務上重要な判例となります。
公益通報の「不正目的」の立証責任は使用者側にある
被告は告発者の「報復目的」を主張しましたが、立証に失敗しました。公益通報の不正目的(損害加害目的など)の立証責任は使用者側にあることが改めて確認されました。告発者に個人的反感があっても公益目的が否定されない限り保護されます。
解雇無効≠不法行為
解雇は無効と判断されたものの、被告には懲戒事由自体(処方箋偽造)は認定されており、勤務継続が困難と判断したことに「相応の理由」があるとして不法行為は成立しないと判断されました。使用者側にとって一定の配慮がある内容といえます。
⑩ まとめ
📌 この判決のポイント
- 地方独立行政法人病院の元副院長医師が、処方箋偽造・電子カルテ不正操作を理由に諭旨解雇された事案
- 裁判所は処方箋偽造の懲戒事由は認定したが、「諭旨解雇は重きに失し社会通念上相当とはいえない」として無効と判断
- 理由①:パスワード共有・相互処方が病院内で常態化しており、被告自身が重大な非違行為と認識していなかった
- 理由②:より悪質な処方箋偽造を行ったc医師への処分が戒告のみであり、原告だけ諭旨解雇は不均衡
- 同僚医師の処方箋偽造を警察・厚生局に告発した行為は公益通報者保護法第3条により保護され、解雇理由に使えない
- 不法行為については被告に相応の理由があったとして慰謝料請求は棄却
- 未払賃金1,539万6,114円の支払いと令和7年8月以降は毎月132万3,777円の支払いを命令

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